徳川埋蔵金の謎──本当に存在したのか? 隠された財宝とその行方

明治維新のさなか、1868年(慶応4年)3月、江戸幕府から政権を引き継いだ官軍は、東海道を下って江戸へと進軍していました。そんな中、江戸薩摩藩邸で旧幕府側の勝海舟と官軍の西郷隆盛が交渉を行い、江戸城を戦火にさらすことなく明け渡すことで合意。4月11日には徳川慶喜が江戸を去り、江戸城は無血で官軍の手に渡りました。

その後、官軍が江戸城に入ると、武器や弾薬などを保管した蔵からは多くの軍需品が発見されましたが、最も注目された「金蔵」は空っぽでした。幕府の財政を支えていたはずの御用金はどこにも見当たらず、厳重な捜索を行っても金銀の痕跡すら見つからなかったのです。

蔵の管理を任されていた25人の役人は厳しく尋問されましたが、誰も口を割らず、結果として全員が処罰されました。

そのわずか5日後、一隻の蒸気船が横浜港を密かに出航し、中国・上海へと向かったという記録があります。外国人船員が乗船し、「ブルガリア国旗」を掲げていたこの船に、実は幕府の御用金400万両が積まれていたという説も存在します。

今回取り上げるのは、有名な群馬県・赤城山周辺とは異なる、もう一つの徳川埋蔵金にまつわる説です。

数多く存在する埋蔵金伝説

そもそも、徳川幕府の埋蔵金だけでなく、日本には古くから数多くの「埋蔵金伝説」が存在しています。その中でも代表的なものを4つ紹介します。

【豊臣秀吉の埋蔵金】(兵庫県猪名川町)
晩年の豊臣秀吉は、息子・秀頼の将来を案じて、莫大な財宝を多田銀山に隠したとされます。伝えられる金額はなんと4億5000万両と金塊112.5トン。これに関連する絵図や巻物も多数存在しています。

【武田信玄の埋蔵金】(山梨県身延町)
信玄は領内の金山から得た財宝を軍用道路「棒道」の各所に隠すよう命じました。その後、家臣・穴山梅雪が本能寺の変の混乱で命を落とした際、所持していた書付に埋蔵場所が記されていたとも言われています。

【明智光秀の埋蔵金】(京都・滋賀)
本能寺の変で織田信長を討った光秀は、安土城にあった財宝の一部を味方に分け与え、残りを亀山城や琵琶湖周辺に隠したと伝えられています。

【帰雲城の埋蔵金】(岐阜県白川村)
1586年、内ヶ島氏の城である帰雲城が大地震と山崩れにより埋没。その地下には最大で2兆円に相当する黄金が眠っているという説もあります。

埋蔵金は実際に発見されたのか?

上記の4例はいずれも現在までに発見されていません。しかし、都市開発や建設現場で偶然に金貨や銀貨が見つかる事例は近年も報告されており、埋蔵金が全くの空想とは言い切れません。

赤城山説ともう一つの有力な説

徳川埋蔵金の隠し場所として頻繁に取り上げられるのが「群馬県赤城山麓」です。この説の背景には、小栗忠順という人物の存在があります。彼は幕末期に勘定奉行を務め、後にはフランスとの協力で横須賀製鉄所を築いた実績を持つ開明派の幕臣です。

小栗が自らの領地である赤城山周辺に財宝を移動させたという証言が、赤城山説の根拠とされています。ただし、現在までに有力な証拠は発見されておらず、信憑性には疑問も残ります。

一方、冒頭で触れた蒸気船の謎は、もう一つの説を生み出しています。江戸から密かに御用金を運び出したこの船が、実際に財宝の行方を握っていた可能性があるのです。

結論:徳川埋蔵金は存在するのか?

多くの専門家や歴史家の見解では、徳川埋蔵金が実際に存在した可能性は高いとされています。幕末の混乱の中で、幕府が財政的に厳しい状況だったとはいえ、江戸城の金蔵が完全に空というのは不自然です。何らかの形で隠された財宝があったと考えるのが妥当でしょう。

赤城山説や蒸気船説のいずれが真実に近いのかは依然として謎に包まれていますが、徳川埋蔵金の伝説は、現代においても人々の関心を惹きつけ続けています。